仕方ないとは思いますが、私たちはどうしても知らない物事のいい一面ばかりを見てしまいがちです。
ですが、そこに至るには至るまでの過程があるのです。
そしてそれは往々にしてその一面からは想像もできないような計り知れない時間や手間や情熱や魂が込められています。さも今この瞬間きらびやかに完成したように見えるものには、実際、そうなるまでの長い道のり(すべてではないですが大抵)あるのです。
そしてそれは、小さな努力や手間や積み重ねの連続です。
初めはわからないことだらけの中、あらゆる面からのアプローチを積み重ねることもあるかもしれません。
そしてそれが結局はほとんど力にはならないこともあるかもしれません(全く無駄になるとは思えませんが)ですが、それすらやってみなければわからないことだと思います。
何が言いたいのかと言いますと、華やかであればあるほど、そして見た感じで判断して、すぐに結果を求めてしまうものもこの世の中には存在しますが、大抵はよほどの天才や何かの特別な事情がなければそこには小さくて地味な積み重ねがあるのだということです。
そしてそれは最後は自分の中の問題なので、ひたすら自分自身と向き合って戦っていくしかないのだと思います。
成し遂げるために必要なこと、必要ではないと思えることも、必要だと教えられたり諭されたりアドバイスされたのなら一度はやってみることが必要なのだと思います。
そのうえで自身で判断するのは仕方のないことですが。
ですが、成し遂げるために必要な膨大な時間というのは、そもそもが小さな時間の積み重ねなわけで、小さなことだし関係なさそうだし一回くらいだしまあ今日はいいか、みたいな気持ちでやっていては当然ながら成し遂げられる可能性は遠ざかるような気がします。
みんなが同じ力量で同じペースで同じことに向かっているならまだしも、そもそも天才かどうかは置いておいて個々の能力にはどうしても差があります。
当然ながら自分より力のある人が自分より努力をしていればその人が達成をする確率があがるし、その時期も早くなってしまうのです。
物事には残念ながらタイミングや運なんかもありますし、それは本当に気まぐれでちょっとの差で自分のものになる場合もあればそうじゃなくなる場合もある。
でもその時に自分のものになるというふうに転がるかは、こういう地味な部分の差が積み重なった結果なのではないかと思います。
ほんの十分。ですが六回それを繰り返してしまえばそれは一時間です。
自分より三倍能力がある人が自分が一時間サボっている間にどれだけ前へ行ってしまうことでしょうか。
そして、時間は待ってくれません。過ぎ去った時間が戻ることは永遠にないのです。
もちろんそれぞれ抱えたものは違うし、あらゆる意味で不公平なのですが、不公平が考慮されるわけでもないのでそんなこと言っても思っても無駄です。
こんなことを考えている間にも他のことができてしまいそうです。
それぞれがそれぞれの与えられた中で何かを得るために努力しなくてはならない中、私はほんの十分くらいなら、たとえば少しだけ睡眠時間を削ったり、少しだけ食事の時間を工夫して時間を作ったりして、工面できるのではないかと思うのです。
私は胸を張って「努力してきました!」と言えるほど努力をしてきた人間では決してないので声を大にしては言えませんが……。
そして才能がないからこそ、こういう小細工(ではないですが)を考えちまちま隙間を埋めてきた気がします。
自分の力量や立ち位置や必要なものを把握することさえ、ある程度能力(天才とかいうのではなくて、それがわかるようになるまでの努力といいますか、時間といいますか)が必要になってくる気もしますが、まあそれは置いておいても、これが完成というものがないものを目指す以上は努力は死ぬまでしなくてはならないもので、しすぎるということがないので、いくらでも工夫を考えるべきだし、小さな努力は積み重ねることに越したことはないように思います。
そして、一生懸命やるということはとても大事だなあと思います。当たり前なんですけど。当たり前は当たり前だから忘れるんですよね。(私だけだったらごめんなさい)
たとえばなんですけれど、私は週に一度このブログを書いているわけですが、大体一回あたり一時間ほどかけて。
すんなり書ける時もあれば、なんだか違う気がしたりしっくりこないと思って何回か書き直すこともありますが、大体たぶん約一時間ほどです。
一か月で四、五時間です。地味ですが、一年続ければ四十時間以上……かなりの時間になります。
そして一応どなたかが読んでくださっているかもしれないので、つまらないよりは面白い方がいいので、読んでいただいた時に何かしら伝わるように書きます。(書いているつもりです。伝わっているかは別として)
伝わるように書くためには、当然伝わるにはどうしたらいいかと考えます。
これが重要なのではないかと思うのです。
伝わるか、伝わらないかは別として、伝えることができるように考える、工夫をする、努力をするということが、また新たな何かに繋がる気がするのです。
一見芝居とは関係ないように見えますが、そこから得られるものは全くの無関係だとは思いません。
演じるということのひとつには、考え続け想像続けなければいけないことがあるのだと私の場合は考えているので。
たとえ役に立たなかったとしても、私というひとりの人間として得られることがゼロだとも思いません。そういうことでもよいのではないでしょうか。
ひとりの人間としての成長は、またひとりの役者としての成長への関わりがゼロだとも思いませんので。
伝わるか、伝わらないかは別としても、伝えようという姿勢がある方が当然伝わる可能性はあがります。
そういうふうに真剣に(どんなことでも)向き合う癖みたいなものを身に着けるのはとても大切なことだと思います。
そこに魂を燃やすエネルギーを使い、それがまた新たな何かを生み出すパワーになるのではないでしょうか。
と、考えるわけですが、これはあくまで私個人の考察と言いますが、考えなので。
道半ばにはあまり声を大にしていえることはありませんが、生きてきた時間と、芝居をしてきたこの十年くらいの時間の中でとりあえず得られたことを少しだけ述べさせていただきました。
何をしたらいいかわからず焦燥感だけがあった十年ほど前の私のような思いを抱えている方がいましたら、まずはこういう部分からでもと、伝わればいいなあと思います。
では皆さま、素敵な週末をお過ごしください。